岩倉神社は岡山市と倉敷市の境に位置しています。
位置的には庭瀬駅西北へ2km程に位置します。
※山陽新幹線には近隣駅がありませんが本線すぐ北側に位置しています。
不思議な感覚ですが、田園風景が続く中にひと際目立つ!?森と岩が・・・
神聖な気もしますが田園風景の中の巨大な岩が(急に現れる岩)ミスマッチを生んでいます。そこに神社があると知らなければ、近くを通ると「なんだろう・・・」と目が行きます。
本当になにかイマイチわからない感覚です。
運転中の際にはお気を付けください(笑)道が細いので事故をしてしまいますので。。
この磐座(いわくら)は本当に自然に昔からあったものなのか不思議なくらい、神社周りにだけ集中して岩がまとまっています・・・。
森の中にあるのが神社です。
巨石がごろごろと転がっている不思議な雰囲気の神社ですね。
岩倉神社について
元禄年間に再興し、明和5年及び安政年間に再建され、現在に至っている。仁徳天皇の御代に吉備津宮の五社殿を創建したとき、この岬に社殿を創建したと伝われている。
吉備津彦命が吉備国に下向のとき、片岡の伊狭穂が栗坂の里で、稲を苅って軍卒に命じて船に積み北に向かったが、急流なので船を廻して、西の岬に荷揚げして軍糧を献じたので名を大稲船と賜った。
潮流の急な所を瀬口、稲を荷揚げした所を稲倉と呼んだ。後に稲倉が岩倉と転訛した。
神社看板より
岩倉神社の由緒並びに沿革
本社は大稲船命(おおいなふねのみこと)を祭る才楽(さいらく) 瀬口(せぐち) 大手(おおて)の産土神(うぶすなかみ)なり
吉備津彦命(きびつひこのみこと) 吉備国(きぼのくに)へ下向(げこう)の時 片岡の伊狭穂(いさほ)と言う人
稲を栗坂(くりさか)の里で刈り軍卒(ぐんそつ)に命じて船に積み北に向かう
潮(しお)急にして進むこと能(あた)わず 船を廻して西の岬(みさき)に泊まり
稲を積み上げて軍糧(ぐんりょう)に献(けん)ず功(こう)に依(よ)り大稲船(おおいなふね)と賜(たま)う
潮の急なりし處(ところ)を瀬口(せぐち) 稲を積みし處(ところ)を稲倉(いなくら)と名付けた。
後年泥砂(こうねんでいさ)流れ落ちて巉巖突峙(ざんがんとつじ)す訛(なま)りて岩倉と言う。
仁徳天皇(じんとくてんのう)の御宇勅(ぎょうちょく)して吉備津宮(きびつぐう)の五社七十二宇を創建(そうけん)し給(たま)う
この時岬(みさき)に一宇を建立(こんりゅう)する元禄(げんろく)年間再興後明和(さいこうごめいわ)五年及び安政(あんせい)年間再建して今日に至る
鐘銘(しょうめい) 奉献巖倉前梵鍾一口宝暦九年八月
「上庄村別当幸福山(かみしょうむらべっとうこうふくざん)※現在の西方院(さいほういん)興性時(こうしょうじ)現住覚良」
書かれていたが、昭和十九年十月大東亜戦争(だいとうあせんそう)に供出した。
現在の鐘は、昭和二十九年に再興したもの。
神寶(しんほう) 庭瀬藩主(にわせはんしゅ)戸川達安公(とがわみちやすこう) 戦勝祈願(せんしょうきがん)に奉納(ほうのう)
境内二社 荒神社(こうじんしゃ)には火彦霊神(ほむすびのかみ)を祭り牛神社(うしじんじゃ)には保食神(ほぐいのかみ)を祭る。神社看板より
現在、周囲は田園風景が連なっていますが、昔は(看板説明文)海や浜だったのですかね。
南北の神社へ続く参道です。
東西の神社へ続く参道です。
神社・周囲とも綺麗に管理されていますね、春に参拝したので草が芽吹く頃なのでこれからの管理が大変そうです。
神社入口
入口周辺にも大きな岩があります。
本殿の後方の磐座へ進む道。
本殿の後方には大きな磐座がみえます。
拝殿に向かって右に梵鐘
説明文には、
伊狭穂 ( いさほ ) という人が稲を船に積んだ場所が 「 稲倉 」 と呼ばれたが泥や砂が流れて岩が現れたので 「 岩倉 」 と訛った。
と書かれてあり磐座が偶然に現れたかのような説明ですが、現地の磐座は自然の産物なのでしょうか!?
石の中には鋭利に割れた石も・・・、磐座が多くある「岩倉神社」の歴史は不思議に包まれていますね。。