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高潮・水害 ・ 倉敷市

千人塚合葬之碑
― 干拓地を襲った、明治の高潮

倉敷市広江に、静かに立つ石碑があります。いまから百四十年ほど前、この一帯を襲った高潮の犠牲者を悼んで建てられた「千人塚(せんにんづか)」です。

碑の名前
千人塚合葬之碑(せんにんづか がっそうのひ)
所在地
岡山県倉敷市広江二丁目
建立
明治18年(1885)ごろ ― 災害の翌年
災害種別
台風による高潮・洪水
伝えていること
明治17年(1884)の高潮による大きな犠牲

何が起きたか

明治十七年(一八八四)八月二十五日、岡山県南部を台風が襲いました。水島灘から押し寄せた高潮によって、福田新田の干拓堤防が各所で決壊。海の水が一気に低い土地へ流れ込み、家屋七四二戸が破壊・流失し、七〇五ヘクタールもの田畑が荒れ果てました。

そして、この災害で亡くなった方は、あわせて五百三十六人。身元の分からなかった二百五十六名のご遺体が、この地にともに葬られました。碑の名「千人塚」は、その多くの犠牲を今に伝えています。

なぜ、ここに碑があるのか

被害が集中した福田新田は、その名のとおり「新田」——つまり、海を干拓してつくられた土地でした。倉敷市の南半分は、かつて瀬戸内の海に浮かぶ児島という島で、その周りの浅い海を、江戸時代から少しずつ干拓して陸にしてきた地域です。

干拓地は、堤防の内側に広がる海抜の低い平地。ふだんは豊かな田畑ですが、ひとたび堤防が高潮に破られれば、海の水が逃げ場なく流れ込みます。「なぜここで、これほどの被害が出たのか」——その答えは、この土地が"もとは海だった"という成り立ちそのものにあります。倉敷という土地の歴史を知ると、この碑の意味がより深く見えてきます。

現在の町

いま、広江や福田のあたりは、住宅や工場が広がる市街地になっています。碑のまわりの静けさと、日常の風景。そのコントラストのなかに、この土地が歩んできた時間が重なっています。(現地の写真は、実際に訪ねて記録し次第、掲載します。)

地理院地図・公式で確認する

この碑は、国土地理院の「自然災害伝承碑」として登録・公開されています。位置や公式の詳細は、次からご確認いただけます。

🗺 地理院地図(この碑の位置)で「災害伝承碑・避難場所」→「自然災害伝承碑」を選ぶと、位置・写真・詳細が見られます。/ 国土地理院「自然災害伝承碑」倉敷市の文化財ページ

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この記事は、災害で亡くなられた方々への慰霊の気持ちをもって記しています。数値・事実は国土地理院および倉敷市の公表資料に基づきます。防災・避難の判断は、かならず気象庁・自治体などの公的な最新情報をご確認ください。
出典:国土地理院「自然災害伝承碑」、倉敷市公表資料。