かつて、ここは海の底だった
いまの岡山平野の南側は、かつて「吉備の穴海(きびのあなうみ)」と呼ばれる浅い海でした。児島を大きな島として、その間に早島など二十あまりの小島が点在していたと伝えられます。潮の満ち引きで現れる広い干潟——それが、のちに岡山有数の平野へと姿を変えていきます。
「早島」という地名そのものが、ここが島であったことのなごりです。まわりを海に囲まれた小さな高まりが、時代とともに陸つづきになっていきました。
一本の堤から、すべては始まった
大きな転機は戦国時代の終わり。岡山城主・宇喜多秀家の命により、天正年間(およそ一五八四〜一五八九年ごろ)に築かれたのが「宇喜多堤(うきたつつみ)」です。早島の多聞ヶ鼻(たもんがはな)を東の起点とし、向山(現在の倉敷市側)まで、およそ四・五キロにおよぶ長い堤でした。
この堤が海を締め切ったことで、内側の干潟が新しい田畑へと生まれ変わります。以後、江戸から明治にかけて四百年もの間つづく「児島湾干拓」——その最初の一歩が、ここ早島から踏み出されたのです。
四百年の干拓が、平野をつくった
干拓は一度で終わるものではありません。堤で海を仕切り、水を抜き、塩を抜き、田をひらく。それを少しずつ繰り返しながら、海は年月をかけて陸になっていきました。かつて船が行き交った海の上に、いまは家が建ち、田畑がひろがり、人の暮らしがあります。
足もとの平らな土地が「もとは海だった」と知って歩くと、早島の景色は少し違って見えてきます。わずかな土地の高まりや、堤のなごり、ゆるやかな道の曲がりに、海と人とのせめぎ合いの跡が残っています。
そして、交通の要衝へ ― 干拓の平野が、物流拠点になった
海を陸に変えた干拓は、早島にもうひとつの贈りものを残しました。それは広く平らな土地です。時代がくだり、そのまっ平らな地の利が、こんどは近代の産業を呼び込みます。岡山市と倉敷市にはさまれた早島は、山陽自動車道の早島インターチェンジを擁する交通の結節点となり、両市のベッドタウンとしても発展しました。
干拓地には岡山県総合流通センターが整備され、その一角に、1991年(平成3年)に西日本有数の展示・コンベンション施設「コンベックス岡山」(岡山県総合展示場)が開業します。丘陵をふくむ岡山市との境に建ち、大・中の展示場など建物の大半は早島町側に位置しています。海だった土地が、田畑になり、いまは人とモノと催しが行き交う場所になった――早島の平野は、四百年をかけて役目を変えながら、ずっと岡山の暮らしを支え続けているのです。
いま、早島を歩く
干拓の起点となった多聞ヶ鼻や、干拓地を治めた戸川家の陣屋跡など、町には「海だった時代」の記憶をたどれる場所が点在しています。まずは町のガイドから、気になる場所を選んでみてください。



