Chapter ・ 干拓と港

玉島 ― 水谷氏がひらいた、北前船の港町

倉敷市の西のはし、高梁川の河口の西側に、白壁と水路の残る古い町があります。もとは海と干潟だったこの地を新田と港に変え、北前船でにぎわう商都に育てた——それが玉島です。

海を、新田と港に変える

玉島(たましま)は、瀬戸内海に面し、高梁川の河口の西側に位置します。江戸のはじめ、この一帯を大きく変えたのが、備中松山藩の藩主・水谷勝隆(みずのや かつたか)でした。勝隆は新田開発に着手し、一六五五年(明暦元年)に水門を完成させて汐留めを終え、玉島新田を築きます。

その子・勝宗(かつむね)は西隣に阿賀崎(あがさき)新田を造成し、両方の地域を結ぶ堤防が築かれて、港町のかたちが整っていきました。児島湾側の干拓に関わった水谷家が、この玉島でも海を陸へと変えていったのです。

北前船と、綿花のにぎわい

整えられた玉島港は、やがて松山藩の藩港となりました。綿花やニシンカス(肥料)などの取引でにぎわい、日本海と瀬戸内をむすぶ北前船も寄港する、物資の集散地へと発展します。港は高梁川の水運を通じて、内陸の松山(いまの高梁)城下ともつながっていました。

山から川、川から港、港から海へ。玉島は、備中の物流が海へと出ていく「出口」として栄えた町でした。いまも残る水路や商家のたたずまいに、その時代の面影が感じられます。

玉島市から、倉敷市へ

近代に入ると、一八九七年(明治三十年)に玉島村と阿賀崎村が合併して玉島町となり、一九五二年(昭和二十七年)には市制を施行して玉島市が誕生します。そして一九六七年(昭和四十二年)二月一日、玉島市は倉敷市(旧)・児島市と新設合併し、現在の倉敷市の一部となりました。

いまは倉敷市玉島として、港町の記憶を残しながら、瀬戸内の町のひとつとして続いています。

玉島を歩く

港町のなごりや高梁川のほとりは、倉敷のガイドからたどれます。同じく北前船で栄えた下津井とあわせて歩くと、瀬戸内の港のつながりが見えてきます。

情報確認:2026年9月 ※年代・人物などは資料により表記に幅がある場合があります。史跡の公開状況などは、おでかけ前に最新情報をご確認ください。
この記事は特集「岡山の大地の物語」の一編です。海を陸に変えた物語は 児島湾干拓 の記事もどうぞ。
文責:おかラボ編集部(岡山在住・家族で県内各地を歩いて記録しています) このサイトについて →
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