- 場所
- 岡山市南部・倉敷市・玉野市にまたがる旧・児島湾一帯
- 期間
- 戦国時代(16世紀)〜昭和(20世紀)/およそ400年
- 成果
- 広大な干拓新田と、人造湖・児島湖の誕生
- キーワード
- 宇喜多堤・沖新田・藤田干拓・児島湾締切堤防
その昔、いまの岡山平野の南半分は「吉備の穴海(きびのあなうみ)」と呼ばれる浅い海でした。そこに、児島という大きな島が浮かんでいた——。この遠浅の海を、少しずつ締め切って田畑に変えていったのが、児島湾干拓の歴史です。
戦国 はじまりの堤 ― 宇喜多堤
干拓が大きく動きだすのは、戦国時代のこと。天正九年(一五八一)ごろから宇喜多氏による開墾が本格化し、天正十七年(一五八九)ごろには、宇喜多秀家の命によって、児島湾の干潟に新田をひらくための宇喜多堤が築かれました。早島のあたりに残るこの堤が、児島湾干拓の先駆けとされています。海に堤を築き、内側の水を抜いて田にする——その第一歩が、ここから始まりました。
江戸 岡山藩の新田 ― 津田永忠と沖新田
江戸時代になると、干拓は岡山藩の一大事業になります。十七世紀の末、藩主・池田綱政の命を受けた重臣津田永忠(つだながただ)が、大規模な新田「沖新田」を開発しました。藩の財政をうるおすための新田づくりは、土木の技術と人の力を結集した、まさに国づくりの営みでした。
もっとも、海を埋めてできた土地は、海面すれすれの低さ。のちの南海地震では、この沖新田が大きく沈下する被害も受けています。→ 沖新田 ― 干拓地を沈めた南海の地震
明治〜戦前 近代の大干拓 ― 藤田伝三郎
時代は明治へ。今度は大阪の実業家藤田伝三郎が、児島湾のさらに沖合をめざす大規模な干拓に乗り出します。計画にはオランダ人技師ムルデルの近代的な設計も取り入れられ、広大な農地「藤田農場」では、当時としては先進的な機械化農業も進められました。明治四十五年(一九一二)には第二区の干拓地が完成し、あらたに藤田村が生まれています。人の技術が、海をどんどん陸へと押し広げていった時代です。
昭和 海を締め切る ― 児島湖の誕生
干拓の総仕上げとなったのが、児島湾の入口をまるごと締め切る大工事でした。昭和二十六年(一九五一)に着工し、昭和三十四年(一九五九)に完成した児島湾締切堤防は、全長およそ一,五五八メートル。この堤防によって海と切り離された内側の水は、やがて淡水の湖——児島湖になりました。塩害を防ぎ、農業用水を確保するための、日本でも有数の人造湖です。昭和三十八年(一九六三)には最後の七区干拓が完成し、四百年におよぶ児島湾干拓事業は、ここに完了しました。
海が陸になった土地に、いま立つ
島だった児島は、いまや完全に本土と一体になり、その名は倉敷市児島や児島半島に残るばかり。かつての海のなごりは、児島湖の水面と、まわりより一段低いたいらな土地に、静かに息づいています。足もとの田や道が「もとは海だった」と知るとき、岡山平野の風景は、四百年の時間をまとって見えてきます。
そしてこの土地は、恵みとともに弱さも抱えています。海面すれすれの干拓地は、高潮にも地震にも弱い。先人が海と闘ってつくった土地を、災害から守り続けることもまた、いまを生きる私たちの仕事です。(現地の写真は順次掲載します。)