岡山の道 ・ 出雲街道
出雲街道
出雲街道
― 美作をつないだ、山の道
山陽道が県南の平野を東西に貫いたなら、県北の背骨は出雲街道でした。播磨(兵庫)から美作を横断し、出雲(松江)へ。山あいのこの道は、人だけでなく、鉄や牛馬、山の恵みと文化を運びつづけました。
出雲街道は、姫路のあたりから中国山地の南ろくを西へ進み、美作(みまさか=いまの県北東部)を横切って、山陰の出雲へと抜ける道でした。険しい山国をつなぐこの街道ぞいに、いくつもの宿場と城下町が育ちます。
🛤 おもな宿・要衝(東 → 西)
兵庫県境 → 勝間田(勝央町・宿場) → 津山(城下町・県北一の要衝) → 久世 → 勝山(真庭市・城下町/宿場) → 新庄(新庄村・宿場/脇本陣・がいせん桜) → 鳥取県境 → 出雲へ
兵庫県境 → 勝間田(勝央町・宿場) → 津山(城下町・県北一の要衝) → 久世 → 勝山(真庭市・城下町/宿場) → 新庄(新庄村・宿場/脇本陣・がいせん桜) → 鳥取県境 → 出雲へ
🪧 街道のなりたち(現地の説明看板より)
出雲街道はもともと、陰陽(山陽と山陰)を結ぶ道。古代にはヤマトと出雲を結び、奈良時代には税を都へ運ぶ運脚(うんきゃく)の道でした。慶長九年(一六〇四)ごろから街道として整えられ、一里塚も置かれます。
姫路から松江まで、宿場は全部で二十一次(21宿)・約230km。うち岡山県内(美作)は八次、作東(現・美作市)の万能山から新庄村の四十曲峠まで約90km。松江藩の参勤交代や公家、出雲大社・伊勢へ向かう旅人、「七里飛脚」などが行き交いました。
出雲街道はもともと、陰陽(山陽と山陰)を結ぶ道。古代にはヤマトと出雲を結び、奈良時代には税を都へ運ぶ運脚(うんきゃく)の道でした。慶長九年(一六〇四)ごろから街道として整えられ、一里塚も置かれます。
姫路から松江まで、宿場は全部で二十一次(21宿)・約230km。うち岡山県内(美作)は八次、作東(現・美作市)の万能山から新庄村の四十曲峠まで約90km。松江藩の参勤交代や公家、出雲大社・伊勢へ向かう旅人、「七里飛脚」などが行き交いました。
何が、この道を通ったのか
出雲街道を行き交ったのは、旅人や参勤交代の行列だけではありません。中国山地でつくられた鉄(たたら製鉄)、牛や馬、木材や炭といった山の産物が、この道を通って運ばれました。山あいの村々にとって、街道は外の世界とつながる、暮らしの命綱だったのです。人・物・文化が動くところに、宿場が生まれ、町が育ちました。
陸の道と、川の道が出会う ― 勝山
とりわけ面白いのが、真庭市の勝山です。ここは出雲街道の宿場町であると同時に、旭川をさかのぼってきた高瀬舟(たかせぶね)の、いちばん奥の発着地でもありました。つまり勝山は、陸の街道と、川の舟運とが出会う結び目。県南から舟で運ばれてきた塩や日用品が、ここで陸の荷に積みかえられ、山あいの村々へ運ばれていったのです。「道」と「水」は、こうして一つにつながっていました。→ 岡山の水の物語
盆地に、人と物が集まった ― 津山
街道の要にあったのが、津山盆地にひらけた城下町・津山です。山に囲まれた盆地は、出雲街道をはじめ複数の道が集まる交通の結節点。人と物が自然と集まり、県北一の商都として栄えました。「なぜ津山が県北の中心なのか」——その答えの多くは、この街道の交わりにあります。
街道・宿場の記述は岡山県、津山市、真庭市、新庄村等の公表情報を参照しています。詳細・最新の情報は各公式をご確認ください。
文責:おかラボ編集部(岡山在住・家族で県内各地を歩いて記録しています) このサイトについて →