- 場所
- 倉敷市南部・水島(高梁川の河口西側)
- いまの姿
- 石油化学・鉄鋼・自動車が集まる水島臨海工業地帯(水島コンビナート)
- もとの姿
- 高梁川河口の干拓地と、漁と農の村
- 物語のつながり
- 「海を陸にする」岡山の営みの、近代の章
① もとは、干拓と漁の村だった
高梁川の河口では、およそ四百年前から干拓が続けられてきました。水島も、もとは干拓でひらいた田と、瀬戸内の海で漁をする、静かな村でした。転機になったのは、明治から大正にかけての高梁川の大改修です。東西二つに分かれていた高梁川が一本に整えられ、使われなくなった「東高梁川」が廃川(はいせん)となります。その広い川あと、そして沖合の海が、あらたな土地の"素材"になりました。
② 戦争が、工場を呼んだ
昭和十八年(一九四三)、その東高梁川の廃川跡を埋め立てた土地に、三菱重工業の航空機工場が建設されます。倉敷駅から工場まで専用の鉄道(いまの水島臨海鉄道)も敷かれました。戦争の時代が、この土地を農村から工業地へと大きく変えたのです。もっとも工場は、昭和二十年(一九四五)の空襲で破壊されてしまいます。
③ 戦後、コンビナートへ
戦後、工場は三菱自動車の水島製作所として復興し、これが水島工業地帯の礎になりました。さらに昭和二十八年(一九五三)ごろから、岡山県が大型船のために港を掘り下げ、その浚渫(しゅんせつ)した土砂で海を埋め立てて、工業用地を広げていきます。高度経済成長期の重化学工業化の波に乗り、石油化学・鉄鋼・自動車が集まる、日本有数のコンビナートへと発展しました。
海だった土地が、田になり、まちになり、工場になった
江戸時代の干拓は、海を「田」に変えました。近代の埋め立ては、同じように海と廃川を「工業地」に変えました。手法も、めざすものも時代で変われど、「海を陸にして、暮らしと産業の土台をつくる」という営みは、岡山でずっと続いてきたのです。水島は、その物語のいちばん新しい一章——いわば"現在地"です。次に工業地帯の夜景を眺めるときは、その足もとが、かつての海と川だったことを思い出してみてください。(現地の写真は順次掲載します。)
成り立ち・年代の記述は岡山県(産業振興課ほか)、倉敷市等の公表情報を参照しています。年代・詳細は各公式をご確認ください。