- 正体
- 旭川の放水路(分流) ― 洪水のときだけ働く、人工の川
- つくった目的
- 旭川の洪水から岡山城下町を守るため
- 設計
- 津田永忠が熊沢蕃山の構想をもとに築造 / 1686年完成
- 名の由来
- 分流施設「二の荒手」の幅が、およそ百間(約180m)あったことから
なぜ、川をもう一本つくったのか
岡山城下町は、旭川のほとりに築かれました。旭川は暮らしをうるおす一方で、大雨のたびに増水し、城下や田畑をおびやかします。とりわけ、南に広がる干拓の新田を守るには、洪水の水を安全にどこかへ逃がす必要がありました。そこで生まれた答えが——「あふれる水だけを流す、もう一本の川をつくる」という発想です。それが百間川でした。
巧みな仕掛け ― 三つの「荒手」
百間川の心臓部が、旭川との分かれ目にある「荒手(あらて)」です。荒手は、ふだんは水をせき止めるが、旭川が一定以上に増水すると、その上を水が越えてあふれるように設計された堤(越流堤)。あふれた水だけが百間川へ流れ込み、児島湾へと導かれます。
※ ふだんは越えない。大雨のときだけ働く仕組み
さらに巧みなのは、荒手が一の荒手・二の荒手・三の荒手と、三段に設けられていたこと。水が荒手を越えるたびに勢いが弱まり、間に土砂が沈んでいきます。洪水の"水"と"土砂"の両方を、段階的に制御するという、じつに考え抜かれた仕組みでした。この二の荒手の幅が約百間(180m)あったことが、「百間川」の名の由来です。そして驚くべきことに、この江戸時代の治水は、三百年以上たったいまも現役で働いています。近年の豪雨でも、百間川は岡山市街を水から守りつづけているのです。
足もとに眠る、弥生の田んぼ ― 百間川遺跡群
ところが、この百間川の川底や河川敷を掘ると、まったく別の時代が現れます。百間川遺跡群——昭和五十二年(一九七七)から三十一年におよぶ発掘調査で、二十二平方キロメートルを超える広大な遺跡が見つかりました。中心となるのは、弥生時代の大規模な水田の跡。稲株の跡までが残り、二千年前の人々が、この低地でお米をつくっていたことが分かっています。
古代の人がえらんだ田んぼの低地に、近世の人が治水の川をつくった。同じ場所に、二千年をへだてた二つの「水と暮らし」が積み重なっている——百間川は、そういう地層のような場所なのです。低平地は、恵みでもあり、水と闘う最前線でもある。その両方を、この一本の川が物語っています。
洪水を逃がす川が、市民の水辺になった
いまの百間川は、ふだんは水の少ない、広々とした河川敷。グラウンドや公園として使われ、散歩やサイクリング、野鳥の観察を楽しむ人々でにぎわいます。かつて城下を守るためにつくられた巨大な治水施設が、時をへて、市民のいちばん身近な水辺になった——。その穏やかな景色の下に、荒手の仕掛けと、弥生の田んぼが眠っている。そう知って歩くと、いつもの河川敷が、少し違って見えてきます。(荒手や河川敷の写真は順次掲載します。)