- 人物
- 津田永忠(1640〜1707) ― 岡山藩士。藩主・池田光政、綱政に仕えた郡代(こおりだい)
- 主な仕事
- 百間川(治水)・倉安川(用水)・沖新田(干拓)・後楽園(作庭)・閑谷学校 ほか
- 共通する主題
- 「水」を治め、活かし、土地を生み出すこと
川は、岡山平野に土をもたらし、田をうるおす恵みでした。同時に、あふれれば城下をのむ脅威でもありました。津田永忠の仕事は、この水の"恵み"と"脅威"の両方に、同時に立ち向かったものでした。順に見ていきましょう。
① 洪水を逃がす ― 百間川
百間川(ひゃっけんがわ)
旭川は、増水すると岡山城下をおびやかしました。そこで考えられたのが、あふれた水だけを別の川に逃がす放水路です。もとは藩に仕えた陽明学者・熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)の構想で、津田永忠がこれを形にしました。
この百間川そのものの仕組み(三段の荒手)や、川底に眠る弥生の遺跡は 百間川 ― つくられたもう一本の川 でくわしく。
肝は「荒手(あらて)」という仕掛け。ふだんは水をせき止めるが、旭川が一定以上に増水すると、堤を越えて水があふれ落ちるように設計された堤です。あふれた水は放水路「百間川」を通って児島湾へと導かれ、城下は守られる。川幅がおよそ百間(約180m)あったことが、その名の由来と伝わります。
② 水を引く ― 倉安川
倉安川(くらやすがわ)
治水の一方で、津田永忠は新しい田に水を届ける仕事もしました。一六七九年、岡山藩として初めての公式な新田開発「倉田新田」のために開いたのが、用水路・倉安川です。田をうるおすだけでなく、荷を積んだ舟が行き交う運河(舟運の道)としても使われました。水は、農業と物流の両方を支えたのです。
③ 海を陸にする ― 沖新田
沖新田(おきしんでん)
そして総仕上げが、児島湾の遠浅を締め切る大干拓・沖新田。一六九一年に藩主・綱政の命を受け、津田永忠はこれをわずか六か月で完成させたと伝わります。じつは、①の百間川の築堤が本格化した直接の契機も、この沖新田の開発でした。洪水の水を安全に逃がす道を確保してこそ、新しい低地の田は守られる——治水と干拓は、はじめから一続きの計画だったのです。
もっとも、海を埋めた干拓地は地盤が弱く、のちの南海地震では大きく沈下しました。→ 沖新田 ― 干拓地を沈めた南海の地震
一人の仕事が、平野の骨格になった
洪水を逃がす百間川、水を引く倉安川、土地を生む沖新田。さらに津田永忠は、名園・後楽園の作庭や、閑谷学校の造営にも携わりました。いま私たちが見ている岡山平野の姿は、この一人の"水の技師"が引いた線の上に、いまも成り立っているのです。恵みと脅威、その両方をあわせ持つ水を、どう治め、どう活かすか——それは、江戸時代も現代も変わらない、この土地の根本の問いです。(現地の百間川・後楽園などの写真は順次掲載します。)