児島湾干拓の物語
― 海を、田んぼに変えた土地
岡山平野の南に広がる、どこまでも平らで直線的な田園。じつはこの土地の多くは、かつて海でした。「吉備の穴海(あなうみ)」と呼ばれた入り海を、人々は何百年もかけて田んぼに変えてきたのです。宇喜多氏に始まり、明治の大事業、そして児島湖の誕生まで。地図の下に眠る、壮大な干拓の物語をたどります。
その平らな土地は、海だった
PHOTO ・ 児島湾
今の児島は「島」の字が示すとおり、もとは海に浮かぶ島でした。本州との間に横たわっていたのが、遠浅の入り海「吉備の穴海」。高梁川・旭川・吉井川という三本の大河が上流から運ぶ土砂が、この浅い海に少しずつ干潟をつくっていきます。
そこに人の手が加わります。干潟を堤防で囲い、水を抜き、塩を洗い流して田畑に変える――これが干拓です。県南のあの真っ平らで直線的な地割は、自然にできたものではなく、人がつくった土地のかたちなのです。
干拓の歩み ― 四百年の大事業
児島湾の干拓は、一度に成ったものではありません。戦国から現代まで、時代ごとに人と技術を替えながら、少しずつ海を後退させてきました。
宇喜多氏、干拓を本格化
戦国大名・宇喜多氏の時代に、干潟を田に変える干拓が本格的に始まったと伝わります。以後、規模は少しずつ拡大していきます。
藩による新田開発
岡山藩のもとで各地に新田が開かれます。職を失った武士に与えるための干拓地(興除新田=おこそえしんでん など)も生まれ、県南の平野が広がっていきました。
藤田伝三郎の大干拓
明治政府はオランダ人技師ムルデルに計画を委嘱。湾を複数の区に分ける壮大な構想のもと、大阪の実業家藤田伝三郎が事業を引き受けます。1899年(明治32)に着工し、難工事の末、明治末から大正にかけて第一区・第二区の干拓地が完成しました。
締切堤防と、児島湖の誕生
戦後、児島湾の奥に全長約1,558mの締切堤防が築かれ、海の一部が仕切られて淡水の児島湖が誕生。塩害や高潮から干拓地を守り、農業用水を確保する要となりました。
地図に残る、干拓の痕跡
干拓地は、いまや岡山を代表する穀倉地帯です。地図を広げると、その歴史が読み取れます。定規で引いたようにまっすぐな用水路と農道、規則正しく並ぶ長方形の田――これらは、計画的につくられた干拓地ならではの風景です。歩けば真っ平ら、遠くまで見渡せる開けた空。「なぜここはこんなに平らなのか」の答えが、足の下にあります。
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※年代・区画・人名は岡山県・農林水産省など公的機関の公表情報に基づく概要です。細部の年次には資料により差があります。

