- 城
- 岡山城(別名・烏城〈うじょう〉) ― 岡山市北区
- 築いた人
- 宇喜多秀家(うきた ひでいえ) ― 豊臣秀吉の信任を得た大名
- 完成
- 慶長2年(1597) ― およそ8年におよぶ大工事
- 鍵になる自然
- 旭川 ― 堀として、道として、そして脅威として
① 川を、堀に変えた
宇喜多秀家は、それまでの拠点だった「石山」から、すぐ東の小高い岡——すなわち「岡山」——へ城を移します。このとき秀家がやったのは、天守を建てることだけではありません。旭川の流れそのものを、城の東から北へと曲げ、天然の外堀にしたのです。人の手で川の道を変え、それを防御に使う。城の立地は、川をどう味方につけるかで決まりました。
八年をかけて慶長二年(一五九七)に完成した天守は、三層六階の堂々たるもの。壁を黒い下見板でおおったその姿から、のちに「烏城(うじょう)」と呼ばれるようになりました。岡山城へ。
② 川を、まちの背骨にした
城ができれば、その足もとに城下町が育ちます。秀家は領内から商人や職人を呼び集め、まちを整えました。ここでも主役は旭川です。川は、舟で荷を運ぶ水の道(水運)となり、城下に物と人を集めました。防御のための川が、そのまま商いの動脈になった——岡山のまちは、旭川を背骨にして形づくられていったのです。
③ 川と、隣り合わせの宿命
けれど、川を堀に取り込むということは、洪水とも隣り合わせになるということでした。旭川が増水すれば、城下は水の危険にさらされます。だからこそ、後の時代に、あふれた水を安全に逃がす放水路——百間川の治水が必要になりました。恵み(水運)と脅威(洪水)は、同じ一本の川の、表と裏。城下町は、その両方と付き合いながら続いてきたのです。→ 津田永忠と、岡山平野の水(百間川・用水)
④ 川をはさんだ、対岸の名園
時代がくだり、藩主・池田綱政は、津田永忠に命じて城の対岸に大きな庭をつくらせます。それが名園・後楽園。旭川をはさんで、城と庭が向かい合う——この構図もまた、川あってのものです。堀であり、道であり、庭の借景でもある。旭川は、岡山のまちのあらゆる場面に顔を出します。
まちは、川と付き合ってできた
岡山の中心市街は、一本の川・旭川を、あるときは堀に、あるときは道に、あるときは脅威として——さまざまに付き合いながら形づくられてきました。「なぜこの場所に城とまちができたのか」。その問いの答えは、いつも足もとの川にあります。次に岡山城や後楽園を訪ねるときは、天守や庭だけでなく、そばを流れる旭川そのものを、まちの主役として眺めてみてください。(城・城下・後楽園の写真は順次掲載します。)